平成15年に区誕生60周年を迎えた生野区。区域の歴史は古く千数百年前までさかのぼります。
ここでは、
長い歴史の一部をご紹介します。
今から約1400年前推古天皇の頃のお話です。生野長者という裕福な長者がおりました。なかなか子どもができなかった長者は、あちこちの神仏に祈願し、ようやく子どもを授かりましたが、その子どもは言葉を話すことができませんでした。長者は思い悩んだ末、四天王寺にお参りして聖徳太子にすがったところ、太子は、子どもに向かって次のようにいいました。「私が前世でお前に預けた3つの仏舎利を今返しなさい。」その子は前世では太子の侍童だったのです。子どもは太子に言われたとおり、仏舎利3粒を吐いて、太子に奉り、言葉を話せるようになりました。太子は、仏舎利一つを法隆寺に、一つを四天王寺に納め、そしてもう一つを長者に与えました。長者は大いに喜び、お堂を建て、「舎利寺」と名付けてこの仏舎利を奉ったといわれています。
この伝説は今もあるお寺の鐘に刻まれています。 そんな伝説に由来して、明治22年国分村、舎利寺村、林寺村、林寺新家村、田島村が合併して「生野村」が成立。区の名称はその生野村の名称を継承したもので、昭和17年12月18日の市議会で「生野区」と決定し、翌年4月東成区より分区して生野区が誕生しました。
写真:舎利尊勝寺
大阪市生野区舎利寺一丁目2-36
日本書紀に「仁徳天皇14年11月(323年)橋を猪甘津(いかいつ)に造り、すなわち其処(そのところ)を号(なづ)けて小橋(おばせ)と日う」との記事があります。それ以前に橋がなかった訳ではないのかもしれませんが、日本において記録や遺物として残されている最も古い橋なのです。
小橋と名付けられたこの橋の所在を明らかにする資料はあまりにも乏しいのですが、「猪甘津」や「小橋」という地名から現在の生野区周辺にあったといわれ、橋が架けられた川は百済川(旧平野川)であるとい言われています。
「小橋」は後世世俗で「鶴の橋」と称されました。橋付近に鶴が群れていたことからだと伝えられています。旧桃谷街道・鶴橋街道が旧平野川に渡る地点に架けられ、古くは河内・大和への交通の要所だったようです。明治7年この橋は石造りに改修されましたが、昭和11年から旧平野川を整備し、現在の平野川に統合する計画が進められ、昭和15年に埋め立てられたことから、廃橋となりました。昭和27年、地元の青年たちにより、橋のあった場所(桃谷3丁目17番街区)に記念碑が建てられ、そこには、当時の石橋の親柱が残されています。
また、現在の平野川には、「鶴の橋」を受け継いだといえる「猪飼野新橋」(鶴橋5丁目・桃谷5丁目と中川西1・2丁目の平野川架かる橋)が架けられています。
写真:猪飼野新橋
1984年、朝鮮市場の再生のため、チャイナタウンを意識した「コリアタウン構想」を打ち出し、1993年、御幸森天神宮から東へのびる長さ500mほどの商店街が完成しました。
さて、この生野区域は、以前、「猪飼野」(‘猪’(豚)を‘飼’う地)と呼ばれ、仁徳天皇の頃には、朝鮮半島の「百済」から来た多くの渡来人が住んでいたため「百済野」と呼ばれていたのです。この地は「日本書紀」「古事記」にも登場しています。現在ある「御幸」通り「御幸森天神宮」という名に関しても、仁徳天皇がこの地の渡来人を訪れた際、休息したことから、「御幸」という名がついているのだそうです。
このように古代、多くの渡来人が住んでいたこの地にに再び多くの韓国・朝鮮の人たちが住むようになったのは、明治末期から大正時代始めにかけての頃からです。工場労働者に始まり、大正8年からの平野川開削工事労働者によってその集落は大きくなり、大正12年済州島―大阪間の君が代丸運行開始により、さらに移住者が増加しました。その後の1945年日本敗戦後もこの地に住む人が多く、現在に至ります。
商店としての発展については、日本の町の代表的な形態として、門前町や寺内町がありますが、御幸通りも、御幸森天神宮の祭礼に来る人たちのために様々な店があったようです。そうして大正時代には、商店が立ち並んでいましたが、戦争による疎開で商店は衰微していき、御幸通りの東の部分に住んでいた先述の韓国・朝鮮人がこの商店を引き継いで現在に至るという話があります。
1888年明治21年、東成郡生野村が新たな町村として設置されました。その生野村は大正時代、「鶏村」と呼ばれるほど養鶏業がさかんだったのです。
生野村の養鶏業は、明治末から昭和初期、濃尾地方からの移住者と市内からの移住者によって国分地区において始められたようです。大正5年頃は7,8割が愛知県岐阜県からの移住者によって占められており、生野村野人口増加は他の鶴橋村、天王寺村に比して非常に高いものでした。当初は、名古屋方面から移入していた雛も村で育雛を行うようになり、ますます発展していき、大正10年には孵卵業が始められ、生野村は国内有数の養鶏地域となりました。大正14年、生野村が大阪市東成区に編入さた当時、東成区の人口増加は市内最高を示していましたが、これに伴ない地価が高騰、養鶏業は、中河内郡等他の地域に移動し始め、昭和9年の第一次室戸台風、12年の鶏ペストの流行、第2次大戦中の資料不足、対戦末期のニューカッスル病の発生などから生野養鶏業は、次第に衰退していったのです。
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