昭和56年就任。
そば粉・小麦粉をはじめとする製粉技術の研究を行う他、製粉の歴史や食文化についての造詣も深い。
また、生野産業会会長として生野区の産業の発展、地域の活性化にも尽力。
三宅製粉株式会社 オフィシャルサイト
http://www.miyakeseifun.co.jp/
産業革命以降、世界で発達した製粉の歴史を目の当たりに
幼少の頃より、「粉の中で生まれ育った」という三宅氏。22歳のとき創始者である祖父のすすめで、1年間大学を休学してイギリスに技術留学に出る。学びに行った先はストックポートという街にある製粉機メーカーの工場。昭和35年当時のこと、いま程大学生が海外に出る事はない。たった一人で英語の勉強と工場での修行の日々。「かなり大変でした。しかも必死で覚えた英語はマンチェスター訛りでロンドンなど大都市では指摘されることも(笑)」
しかし、近代的なイギリスの製粉技術を学べたのは大きな成果だった。「産業革命以来発展してきたミル=製粉機械は当時アメリカ・ヨーロッパ式が主流で、日本は大きく遅れをとっていましたから。」 同時に、食品加工の技術のなかに人間の英知を見い出す。
「技術によって食文化は作られるんです」機械の投資が大きく品質にバラつきが出る事もある製粉業を、しっかり商売として続けていく覚悟が出来たのもこの頃だったという。
どんな人もそばの美味しさを楽しめる技術とは
以来40年以上製粉の仕事に携わり、日本の食文化に貢献してきた三宅氏。三宅製粉は現在、誰もが知っている有名即席そばの原材料の3割のシェアを担う。そんな三宅氏が大阪府立大学農学部 生命環境科学研究科大学院で改めて製粉の研究を始めたのが63歳の時。研究課題はそばの成分分析をはじめとする加工適性についてだ。「例えば、そばの成分を細かく分析して、分けていく。そして、そばアレルギーのもとになる成分(アレルゲン)を探し出し、アレルゲンを取り除いたそばを小麦粉などと一緒に加工する。それによってそばアレルギーの人も安心して食べられるノーアレルギーのそばをつくり出すことも不可能ではないのです」。
また、紫外線に弱く劣化が早いそばの品質保持も大きな課題のひとつ。新そばを-13℃でガス充填することで鮮度を保つ方法や、発想を変えてスリランカでは気候の利点で年中新そばが収穫できるというのだから楽しい。
研究が机上のものに終わらず、商売としての製粉が先にあり、それから食文化という観点で、より豊かな食生活を目指すものとして三宅氏の研究はある。工場内に科学的な研究施設と地域の人々がそば打ちを楽しめる場所が併設されている事からも、科学と食文化がしっかり手を繋いだその理念がうかがえるのだ。
機能性食品としてのそばの魅力をPR
一言で製粉と言っても、小麦粉はオーストラリア、カナダ、アメリカなど、そばは中国、ロ シアなど生産国も様々、品種や食べ方も多岐にわたる。麺やパン、その他の加工食品によっても成分によってブレンドの方法が異なる。原料のほとんどが輸入に 頼っている上、生きている穀物を扱うため安定した商品を提供する為の努力は並み大抵のものではない。それでも、「もっとそばの魅力を大勢の人に伝えたい」 という願いにより、三宅製粉が中心となるオンラインショップ「e-蕎麦粉.jp」をオープン。全国のそば店に向けて玄そば、そば粉、小麦粉など様々な商品を提供している。
また、前述の「なにわそば打ち塾」では、地域の人が自分でまいた種を育ててそばにする企画も好評だ。
「必須アミノ酸やビタミン類を多く含むそばは栄養値が高く優れた食品。いま話題のルチンという毛細血管を強化してくれるポリフェノールも含まれています。 このような機能性食品としてのそばの魅力を最大限にPRするとともに、様々なそばの品種を研究し、お客さまの要望によって成分や配合を変えて提供するのが 製粉業としての指命だと思っています」
健康ブームとあってそばの価格は年間約20%ずつ上昇しているという。ネットによる全国レベルでの展開と地域での取り組み。三宅氏の広く深く取り組む姿勢 は、単なるブームに終わらない食文化の発展の可能性を感じさせる。
「生野の築いたものが世界の発展に貢献できることが理想です」
子供の頃から町工場が遊び場だった三宅氏にとって、ものづくりの街生野への思い入れはひ とかたではない。「戦災をまぬがれて残った生野の町並みは、良く言えば昔ながらの情緒ある下町の風景ですが、悪く言えば近代都市としては取り残されてし まった。火災発生時等の被害が大きいなど、安全面でも弱点が多い。交通や防災に関しては改善すると同時に、伝統的なものづくりの文化は積極的に残していく べきだと思います。ただ、残すだけにとどまらず、生野で培われた技術や出た成果は世界の発展に貢献していけるのではないだろうかと考えています」
それにはインターネットなどITの利用が不可欠だと三宅氏は続ける。「例えば、ホームページを作るだけでなく、そのホームページを使って何か商売ができる 仕組みを考える、というようなことです。もちろんそれは最低でも英語と中国語、韓国語で読める必要があります」モノとお金という目に見えるものと、文化や 技術といった無形のもの、両方がきちんと動いくことで生野の街が、ひいては世界中が豊かになれば、という三宅氏の熱い思いが伝わって来るようだ。20代の 頃から世界という広い世界で自社の技術を見つめ続けてきた三宅氏らしい見解は、若い世代にも確実に伝わっていくはずである。