世界無形文化財である文楽人形浄瑠璃を商標に、文楽せんべいをはじめ、和菓子・欧風菓子の製造・販売を手がける。
文楽グッズの企画・製作・販売にも携わり、文楽の普及に並々ならぬ情熱を注ぐ。
有限会社文楽せんべい本舗 オフィシャルサイト
http://homepage3.nifty.com/kasho-bunraku/
大手会社の営業マンから個人商店の菓子屋へ
戦後まもなく、軍人だった義父が始めた菓子屋業。玉子と砂糖をぜいたくに使い焼き上げたせんべいに〝文楽〟の名がついたのは、文楽好きなこの先代が、親交の厚かった初代人間国宝、豊竹山城少掾(とよたけやましろのしょうじょう)からその銘を受けたからという。文楽せんべいは、キヨスクの倉庫の半分をも占める人気商品でもあった。しかし、多彩な菓子類が流通するにつれ、売り上げは厳しくなってきた。昭和40年代後半、高度経済成長が終息に向い、第一次オイルショックに陥った時代である。突然に、義父の家業を手伝うよう言われた村上氏は悩みに悩んだという。当時は日産に勤めており、販売成績も良い営業マンであり、菓子屋とはまるで違う世界で生きていた。しかし、親族会議で「文楽せんべいの名前を残したい」と言われ、心がグラッと来た。さらには「つぶしてもいい」とまで言われ、いちかばちかやってみようと決意したのだった。
困難を極めたオートメーション化
問題を山のように抱えてのスタートだった。まずは、高齢化し、就業が難しくなった職人に退職金を渡すことが最初の仕事だった。とはいえ、若手の職人が育っていないのが実情であり、商品を生産するためにはオートメーション化は不可欠であった。そこで、従来の古い機械も動かしながら、資金を投入して自動機械をあつらえた。だが、手焼きの技術を持っていないものが機械を使っても、思うようなせんべいが焼き上がらず、機械の調整の日々が続く。家伝の味になるまでには約10年がかかったという。技術の向上を目指す間にも、債務の整理もあり、体も壊したりと、苦労続きの毎日。売り上げは思うように伸びず、営業マン時代に培った不屈の精神を持ってしても、一時は菓子屋業に見切りをつけようとまで思い詰める。そんな時に転機ともいえる人との出会いがあった・・・。
人との縁から学んだ自社商品の素晴らしさ
先代時代から国鉄(後JR)の出入り業者であった縁で、関西財界人の社交クラブである社団法人〝清交社〟(現・アサヒビール株式会社名誉顧問、村井勉氏理事長)のメンバーと交友を深め、商売の先輩からさまざまなアドバイスをもらう。「かまたきになるな」の言葉で、世間のことを広く勉強し、いろいろな人と接することを心がけた。「文楽せんべいは素晴らしい。自分の持ってるものがあるんだから、商品に磨きをかけなさい」と言われ、改めて文楽せんべいを見つめ直した。もっと文楽の良さ、楽しさ、魅力が菓子に伝わって、付加価値が付けば、お客様にも買ってもらえる!そこで、文楽せんべいのパッケージを一新することに。縁あって、文楽を理解するデザイナーに出会い、力強い絵柄のパッケージが誕生した。折りよく、昭和59年、国立文楽劇場が日本橋に開館されるにあたり、念願叶って劇場内に出店、文楽せんべいなどの商品を置く運びとなった。こうしてビジョンが明確になるにつれ、売り上げも安定していった。自分自身が文楽の素晴らしさを知るにつれ、文楽を商標にできる幸せと責任を痛感した。「文楽の名を汚すようなおかしな商品は作れません。だから、品物の選別をきっちりするように従業員にも強く言ってます」。
文楽の魅力をより多くの人に・・・
村上氏にとっては、晴天の霹靂で始まった菓子屋業ではあったが、今や、文楽との関わりはライフワークであり、文楽の普及という使命をも感じるようになってきた。それまでになかった文楽グッズの企画・製作・販売にも着手し、文楽ファンを喜ばせている。商品を携えて年2回の地方公演にも同行する。舞台裏の見学会や役者のレクチャーなども催し、文楽の魅力を広く伝えるために尽力している。また、地元の子供たちとの関わりも大切なひととき。せんべいの道具を持って学校へ講演に行ったり、地元小学校の工場見学も随時受け入れている。「子供たちが楽しみにしてくれてますから。子供たちは出来立てのせんべいが柔らかいことにビックリしてます。味に敏感な子供は『何が入ってるの?』と聞いてくる。小麦と玉子と砂糖だけ、添加物のない味を発見するんやね」と目を細める村上氏。「大阪人は、地元の味、地元の文化を大切にしてほしい」という思いが、〝文楽せんべい〟の1枚1枚に込められている。