昭和53年に2代目として就任。
リサイクル率の高い素材、ブリキを使用した缶の製造を手がける。
主な製品は、テーマパークで販売されている菓子缶、歳暮・中元用の高級食品缶、薬品容器など。
製缶する際に不可欠な自動製缶用金型、プレス金型も自社で製作、コストダウンとスピードアップにつなげている。
下宮金属工業株式会社 オフィシャルサイト
http://www.shimomiya.co.jp/
「プレス用の金型から自社製作。それがうちの自慢です」
食べ終わってからも楽しめるテーマパークのお菓子缶、有名メーカーの紅茶の缶、手みやげでいただくお菓子の缶、お中元・お歳暮で届く高級食品の缶などなど。食べ終わっても楽しめて、「この缶、家にある!」的な親しみを感じる缶を、下宮氏が営む同社では製造している。紙に印刷するのと同じ要領でプリントが施されたブリキの板。それを、カットしたり、打ち抜きしたりという行程を製缶ラインでおこない、缶製品が出来上がる。誰が触ってもケガをしない高い安全性を、長年、改良を重ねて蓄積してきたハイレベルな技術力で保っている。また、製品用にカットされた残りの部分も全て再利用できるため、ブリキは、リサイクル率の非常に高い素材として見直されている。 「昭和8年の創業当時は小型モーター、戦後は、ブリキのおもちゃなどを製造していました。初めて製缶を手がけたのは、化粧品のクリーム缶で昭和30年前後のこと。それ以後ドリンク剤のキャップなども手がけていましたが、約40年間は製缶ひとすじです」
金属プレス加工だけでなく、金型製作も自社で手がけるようになったことが、製缶業ひとすじで堅実な歩みを続けている基礎となった。
常に必要とされる会社であり続けることを、モットーにして
氏が大学を卒業した昭和40年頃、日本は高度成長期のまっただ中。 「プラスチックの需要が伸びている頃。『次は金属よりも、プラスチックの時代やろう』と思って、プラスチック屋さんに入社したんですが、半年後に、親父に呼び戻されまして。11月に辞めたので一度もボーナスをもらえなかったのが残念ですねえ(笑)。でも雇用されている側を経験できたのは、とてもいい勉強になりました」 先代と共に働くようになってからは、義兄の突然の独立や、取引先の倒産に直面したりと、苦しい時代もあったが、時代背景にも助けられた。 「オイルショックが背景にあって、缶製品の需要が非常に伸びました。時代にも後押しされた。苦しい時も、『お得意さんが必要なら、その会社は絶対につぶさない』という親父の言葉が支えになりました」 常に必要とされる会社であること。取引先であるお客様をきちっと見ること。昭和53年に突然他界した先代の後を継ぎ、いきなり社長となってからも、常にそのことを考え、努力してきた成果が、順調な業務規模拡大に繋がっている。
工場は冷暖房完備、より作業しやすい環境を目指す
大学卒業後に、短期間ではあるが“雇用される側”を経験した下宮氏。従業員が気持ちよく働く環境への気配りを忘れない。 「従業員に目を向けていることが多いですね。縁あって、一緒に働いてくれているわけですから。しんどい単純作業を黙々とこなしてくれている。だから、作業環境を良くしたいというのは、常に意識しています」 早くから、工場も含む全館冷暖房完備にしたのも、よりよい作業環境を目指してのこと。一緒に働くメンバーへの思いやりにも、氏のやさしさ溢れる人柄がにじみ出る。 そんな父を見て育った、ご子息は3人とも、それぞれ社会での経験を経て、同社で働き、父である氏を支えている。「僕は、保守的で昔気質の人間なんだけども、割と柔軟に新しいことも納得して受け入れられる。それが強みかもしれないな。それをうまいこと生かして、息子たちともやっていきたいですね」
「生野での付き合いが、僕の一番大事な部分をつくっている」
「小学校から高校まで、ずっと生野の学校。純粋な生野っ子ですよ」 業務拡大のため、現在は堺市で操業する同社だが、下宮氏は生野で育った。学生時代も経営者となってからも、生野と共に歩んできた氏は、中でも[生野産業会]で得たものが多いと言う。 「本当に多士済々な方がいらっしゃる場所。人との付き合い方、経営者仲間の考え方、いわゆる大人の付き合い、そういう僕の一番大事な部分を全て教えてもらいましたね。もう40年近くの交流になりますけど、通じ合える仲間がいる場所です」 さまざまな交流を通して、経営者として、人間としての原点となっているのがうかがえる。